ちょっとひと休み

きらきら煌くあいばくんがすき

2011.3.11から4年、当時の記憶

2011年3月11日から4年が経つなんて信じられないほど、あの日のこと、あの日から変わってしまった世界は鮮明に、まるで昨日のことのように思い出されます。

それでも年々薄れていってしまうかもしれないこの記憶を、この先も忘れないためにも、震災当時のTwitterのログ(お笑いクラスタだった時のもの)からもう一度思い返して、当時うまく書けなかった記憶を、書き残したいと思いました。直接の被害があった地域では無かったし、それこそ計画停電が何度かあったくらいだけど、それでも、あの日、あの日以後なにがあったのか、忘れないためにきちんと書き残しておこうと思いました。

とても個人的な備忘録。長いです。

2011.3.11.(金)

私が住んでいる地域は、直接の被害はほぼ無かったのですが、相当な揺れを感じた地域でした。地震の瞬間は仕事をしていました。ビル全体が水平に大きくゆっくりと揺れ、まるで船に揺られているかのような、怖さよりも不気味さが勝つような揺れ方でした。「これは、大変なことになるぞ…!」皆一斉に階段を使い、急いで外へ避難しました。ワンセグを付けると全局がニュース速報。ただひたすらに呆然と、その場にいたメンバーでワンセグを見つめていた光景を思い出します。

誰かが「……なんてこと……」と絞り出すように声を出し、その後は誰も何も、言葉にできなかった。ただ、ニュース速報から流れる報道の声だけが聞こえる。あまりの凄惨な現実を受け止めきれずに、その場にあったのは、静寂でした。

私の実家は私が住んでいる地域よりもさらに震源から遠かったので大丈夫でしたが、大学は東京だったので、当時都心、それこそ高層ビルで働く友人が大勢いました。
みんな大丈夫なのか、無事なのか、不安で仕方なく「大丈夫!?」「無事!?」とだけ書いたメールを送りましたが、すぐにはメールは機能しませんでした。大災害が起こると、皆が一斉に送るため、数時間経ってようやく届くような感じで、緊急時にはすぐには機能しないことも知りました。
地震発生から約6時間後、ようやく友人たちと連絡が取れました。幸いにも、友人たちは皆無事でした。
東京の交通網は麻痺していて、六本木のオフィスから何十キロも離れた自宅まで、ヒールのブーツで夜通し歩いて帰った友人もいました。その日は非常に寒い日で、「ピンヒールのパンプスじゃなかっただけよかった、ブーツだったから歩けた」と後に友人は話してくれました。その後は、オフィスにスニーカーを必ず置くようにしているそうです。
 
避難した屋外から友人にメールをしたところまでは覚えているのですが、そこからどうやって、いつ自分のデスクに戻ったのかは正直ハッキリ覚えていません。震源地ではなかったので、その日の仕事はいつも通り行ったと記憶しています。ただ完全に、心ここに在らず。3月11日は、金曜日でした。
 
断続的に余震が続き、ニュースから流れ続ける映像はあまりに凄惨で、一人があまりに心細くて、11日から12日にかけて、夜通しTwitterを見ていたことを思い出します。
この時ほど、Twitterというツールがあったことに感謝したことはありませんでした。
 
2011.3.12.(土)
余震と心細さでろくに眠れず、ほんのすこしだけ眠ってすぐにまたTwitterを開きました。あの当時、Twitterがあったことで、どれだけ救われたかわかりません。あの時の、あの時期のTwitterの…うまい言葉が見つけられないけれど、日本全体の一体感のようなものを感じたというか、被災地の方に少しでも役立つ情報を、このアプリが役立つよ便利だよ、医療情報はここでまとめられているよと皆が呟き拡散し、離れている地域でもできることをと、節電をして、募金や献血に行こうと呼びかける人がTLにいて、でももしも疲れたら情報は一度遮断しても大丈夫なんだからと気遣う人がいて、海外の方々のpray for japanのハッシュタグ付きのツイートに泣いて…あのなんとも言えない雰囲気、あの気持ちは、きっとこの先も一生忘れられないし、毎年思い返すのだと思います。
当時は無駄な呟きで1行でも重要な情報が流れてしまうことが怖くて、自分の気持ちなんて呟けなくて、Twitterではなくブログに、公式サイトやニュースサイトの即時性、各種テレビがUstreamで中継されていたこと、消息情報はGoogleで探せたことなど、役立つと思われるサイトをリンクを貼ってまとめて、それをツイートしていました。でもブログにも、自分の気持ちは書けなかった。すごく不安でやるせなくてどうしようもない気持ちでもうしょうがなかったけれど、大した実害の出ていない地域の私なんかよりも必死の思いの人が大勢いるんだと思ったら、自分の気持ちなんて全然書けなかった。
 
この日、計画停電を実施するというニュースが流れ、関東の電気は東北で作られていたということを、恥ずかしながら初めて知りました。その後何度か行われた計画停電は、夜にあった場合、ただひたすら続く静寂でした。自宅にいても、電化製品の中で常に稼働している冷蔵庫も止まります。保冷剤を冷蔵室に入れて、その数時間を凌ぎました。私の住むマンションの水道は、電気のモーターポンプで組み上げる仕組みのため、停電中は水道も使えません。お風呂に水を貯める癖がつきました。街の街灯も、信号も、すべて消えます。街は完全なる、暗闇と静寂に包まれていました。それでも、ただ暗いだけ。だから大丈夫。と毛布に包まりじっとしていたのを思い出します。
スーパーでは欠品が相次いでいました。生鮮食品が棚に何もなかった。本当に何もなかった。薬局で真っ先に売り切れて何よりも困ったのは、トイレットペーパーと生理用品。必要以上にはいらないけれど、必要量をきちんと備蓄しておくことの大切さを痛感しました。
 
2011.3.13.(日)
当時のアカウントで大勢フォローしていたお笑い芸人さんたちが元気づけるようなツイートを毎日してくれていたのを思い出します。この日は、震災前から予定されていた熊本でお笑いライブがあった日でした。ノ ンスタ井 上さん、「こんな暗い状況だからこそ、みんなが少しでも笑顔を取り戻せるように、漫才してきます!!僕は漫才という形で、みんなにエールを送ります!!」とツイート。フォロワーさんに熊本の方がいて、専用のアカウントを作ってそのライブでのレポを、「被災された方が少しでも笑顔になるように」とたくさんあげて下さっていたのを思い出します。この日、緊急対応としてradikoのエリア制限が解除され、全国どこにいてもスマホでラジオが聴けるようになりました。
 
2011.3.14.(月)
節電のため、オフィスではまず蛍光灯を半分抜きました。この日抜かれた蛍光灯は、今でも抜かれたままで、ふと見上げた瞬間に当時が思い出されます。昼間は極力すべての照明をオフに、また、廊下の電気は常にオフの状態で、昼でも真っ暗な期間が続きました。常にオンになっていた一部の電気は、赤外線センサーが導入され必要な時のみ点くようになりました。近所のコンビニの蛍光灯も半分ほど抜かれ、暗い状態で営業していました。そして、数日中にすべてLEDライトに切り替えられました。切り替えられた当時はとても暗く感じたけれど、今は何も感じないほどに明るく感じ、慣れていたことに気付きました。
 
2011.3.16.(水)
地震から一週間、仕事には行くけれど、好きな音楽もお笑いも聴く気にも観る気にもなれず…という日々を送っていた中、この日は大好きな人たちからたくさんの元気をもらった日でした。21時から、芸人さんたちのUst配信があった日。詳細は割愛しますが、「できることを」「ひとりでも前向きになれたら」という気持ちのもと、配信してくれたライブでした。歌にトークにゲームにと盛り上がって、とにかく楽しくて、久しぶりにお腹をかかえて笑って前向きになれたのを思い出します。
そして、深夜1時からはラジオをずっと聴いていました。やまちゃんのラジオ特番、「やまだひさし」。中学の頃にいつも聞いていたやまちゃんの声はとても落ち着きました。「歌しりとり」がとても素敵だった。
生きてく強さ→桜→らいおんハート→True Colors→ずっと好きだった→高橋瞳、あたしの街、明日の街→小さな恋の歌→旅姿六人集→UVERworld、オトノハ→HELLO→1/6の夢旅人2002→虹→じょいふる→瑠璃色の地球上を向いて歩こう→→We Are The Worldドラえもんのうた→大切なもの→野に咲く花のように→New World→どんなときも。→もしもピアノが弾けたなら→LOVE SONG→GLAY、生きてく強さ→無限ループ!
結局朝5時まで全部聞いて、寝不足だったけれど、私は私にできることを、しっかりしなきゃと、頑張る元気をもらったことを思い出します。
 
流れる番組はすべて報道で、CMはすべて、ACのもので。ぽぽぽぽーんの、和やかなCMにとても癒されました。
 
2011.3.20.(日)
スーパームーンウィーンフィルハーモニー管弦楽団が、日本のために追悼の演奏をして下さったというニュース。追悼の曲は、モーツァルトのPiano Concerto No.23 KV488の第二楽章のAdagio。「追悼の演奏をしたのは私たちの音楽を日本人ほど愛してくれる人はいないからです」と楽団長のコメントでした。感動でした。
 
ログを読み返していると、この頃から、少しずつではあるけれど、ツイートも普段通りになってきていました。
具体的な行動としては、募金や節電くらいしかできず、とてももどかしい気持ちを抱えたまま、自分は自分にできることをと、何とか気持ちを奮い立たせて仕事に向かっていた日々でした。このもどかしい気持ちは、今も変わらない。でも、できることを今後も継続していきたいし、この日のことはずっと忘れない。
 
そして、個人的に、常日頃から気をつけたいこと。この他にも備えておくと良いものは山のようにあるけれど、最優先のものたち。
  • 貴重品はすぐ持ち出せる場所にまとめる
  • 枕元には必ずメガネケースに入れたメガネ、タオル、マスク、スリッパを置く
  • 何かを羽織ればすぐ外へ出られる格好で眠る
  • お風呂に必ず少量でもお湯(水)をためておく
  • 停電時は必ずブレーカーを落とす
  • カーテンは極力しめておく
  • 食料品(特に水)の備蓄
  • 生理用品・トイレットペーパーの備蓄
毎日仕事ができて、温かいご飯を食べられて、大切な人がいる。「またね」「明日ね」「今度電話するね」。「また」や「明日」や「今度」が変わらずに来ることは、当たり前ではない幸せなのだと。次の瞬間に、この日のような地震が起こるかもしれない。火山が爆発するかもしれない。大災害ではなくても、何が起こるかはわかりません。大切な人のために、「忙しい」を言い訳にするのは、この日からやめました。電話で口論になっても、最後は必ず仲直りして「ありがとう」の言葉を込めてから切るようになりました。いつだって、明日が必ずあるとは限らないのだから。
4年前の今日、確実に私の中での気持ちは大きく変わりました。現在の仕事が諦めきれなくてここまで続けてきてしまったけれど、今のプロジェクトが完成する目処が立ったら、もう一度しっかり考えたいと思っています。いや、考えます。
 
2015.3.11、早咲きの桜。
本当の意味の春が、少しでも早く訪れますように。少しでも前に進めますようにと、願いを込めて。

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